はじめまして、家づくり馬鹿の秋島雅彦です

このたびは私のプロフィールをご覧下さり、ありがとうございます。
私は、1983年、23歳の時に父が個人事業者として続けてきた秋島建設を継ぎました。

職人だった父の後を継いだ私もまた、大工職人として建築現場で仕事を学ぶことから始めました。
あれから、あっという間に時が流れました。

振り返ってみますと叩き上げ大工だった先代が、秋島建設を興してからこれまで続けてこられたのは、秋島建設を信頼して下さったお客さまと大工さん、協力業者さんの働き・・・沢山の方々のお陰であると思っています。

代表取締役 秋島雅彦
昭和5年 十勝清水町生まれ

秋島建設が築いてきたものが「家というモノ」ではなく、「家を通じた人とのつながり」だったともあらためて感じています。

ここまでくるのに、誰一人として欠けてはならなかった。

皆さまへの感謝の気持ちでいっぱいです。

先代から続く職人気質で家づくり馬鹿な私だからこそ、これから家づくりをお考えのあなたのためにまたは、当社とご縁のある大切なあなたのために、何かお役に立てる事があるかもしれません。

そこで少し退屈かもしれませんが、私の自己紹介をさせていただきたいと思います。
しばしお付き合い下されば幸いです。

建築の仕事との出会い

私が最初に建築の仕事を意識したのは小学校の卒業文集でした。当時の担任の先生に「何でもいいから書け」と言われて「親父の会社を大きくするのが将来の夢」と書きました。

そして他に書くことが浮かばず、建築現場の絵も一緒に描きました。現場にトラックが止まっていて、私がかんながけをしている風景でした。

どうして会社を大きくしたかったのかというと、きっと母の苦労を見ていたからだと思います。
母は、現場に出て父の手伝いをしていました。
昼も夜も家計のために保険を売ったり、毛糸をつむいだりもしていました。

そして私が小学校4年生の時には、車の免許を取って材料を現場に届けたりするようになっていました。
小さな身体で、慣れない力仕事にも文句一つ言わずに頑張っている母を見て、何か力になりたいと子供心に思っていたのかもしれません。

中学に入ると、私も現場の手伝いをするようになりました。
当時は、基礎のコンクリートを手打ちで打設していました。
友達を誘って、ミキサーをぐるぐる回してバケツで流し込む作業の手伝いをしました。
友達と一緒になって力一杯身体を動かせて、アルバイト代まで貰えた現場の手伝いは楽しかったですね。

高校に進学する頃には、天井や壁を貼る仕事もさせてもらうようになりました。
家づくりに関する仕事は、何でも楽しくてしょうがなかったです。

そんなある時「お前は、とにかく休みなく働くよなぁ。頑張っているな」と、褒めてもらえたことを覚えています。
私も、褒められて嬉しくない訳がありません。

建築現場

建築の仕事へと進む

この頃までに、親父の建築会社を継ぐということを心に決めていました。
そんな私でしたから、高校卒業後の進路で同級生が動いていても一人だけ呑気に遊んでいました。
ですが、周りは大反対。特に母は「商売は苦労が多いし、難しいんだからやめなさい」と言いました。

ところが、どこにお金を貯めていたのか工面をしたのか分かりませんが母は「どうせやるのなら、建築の学校へ行きなさい」と進学を勧めてくれたのです。

そこで、私は、より専門的な勉強をするために進学を決意しました。
後で、その学校は建築系では1番学費が高い所だということを知った時には言葉になりませんでした。

短大生活が始まると、私は初めて親元を離れて一人暮らしをする事になりました。
同級生は親が建設会社の社長というパターンが多く、皆、裕福そうに見えました。
話しをする人間で貧乏くさいのは私一人でした。

同級生達はみなマンション暮らしで、私は共同トイレのアパートでした。
でも友達は沢山できました。狭いアパートは、いつも誰かしら遊びに来てくれているような状態でした。

彼らと付き合っていると、とても楽しいのですが、金銭感覚がずいぶん違うので度々カルチャーショックを受けました。
当時の私は、親のお金で自由に贅沢をしていて大丈夫なのか?と心配にもなりました。

現在、その時の友人達の会社は全部潰れて無くなってしまっています。
そういう報(しら)せを聞くたびに、寂しいのと同時に、心の中で、どこか「やっぱりな」という気持ちがしています。

現在のような不況が永く続いている中で、彼らのようなお金がある会社が無くなって、当社のような小さな会社が何とか存続できているのを不思議に感じる事があります。

それは出逢ったお客様、お一人お一人を大切にしたいという想いでやらせていただいていることが、若干でも仕事が切れずにつながっている理由かなと考えたりしいます。

短大を卒業後、しばらくして、大工をしていた父の兄弟弟子の所に修行に行かないかという誘いがありました。
父と私の小さな会社とは違い、帯広で年間70・80棟を受注している規模の会社でしたので「是非に」とお願いして3年間修行をさせていただく事になりました。

その会社は仕事の効率がとても良く考えられていて、自分の視野が狭かったことを思い知らされました。
それまでは親父の仕事しか見ていなかったので、建築ってこうなのかと衝撃を受けました。

そんなバリバリの建築集団の中に、若造の私が入っていったのです。

内心、不安と期待が入り混じった何とも言えない状態でしたが、棟梁さんはとても優しくしてくれました。
父はどちらかというと職人気質の人間でしたが、これからの時代は大工も親切で親しみが持てる人柄が必要だなと感じました。

修行3年目、22歳で階段の墨付けと切込みを任せてもらった時のことは、今でも忘れられません。
「これさえ出来るようになれば、これからは、一人でも家をつくる事が出来る」

これで、私も一人前の入り口に立ったんだ」と胸が熱くなりました。
そして、無事にその仕事も終えることができ、感謝と希望を胸に、私は秋島建設に戻ることになりました。

現場職人時代

はじめてのお客様

私が23歳の時です。同級生のご両親が定年退職を機に一戸建てを新築する事になりました。
そして、帯広での修行から戻ってきたばかりの私にも声をかけて下さったのです。
その方に、生れて初めて自分でつくった新築の見積を持参して、帯広で学んだ家づくりのやり方を説明したところ、「お前に任せる」といって下さいました。

お客様と打ち合わせの社長

その瞬間は鳥肌もんでした。嬉しかったですし、やるぞという気迫が体中に満ちてきました。
あとは、向かっていくしかありません。「全力投球で最高の家を建てよう」と思いました。
建築現場では、お客様が惚れ惚れとしてくださるような仕事をしようと心がけました。
若い職人が柱を立てて、屋根に上がって釘を打って、キビキビと動き回きまわる様は活気もあって、毎日、何ともいえない感動がありました。

お引き渡しの時には、お客様がとてもニコニコしておられました。
一生に一度の瞬間を、幸せに迎えて頂けるようにお手伝い出来た事で、私も、本当に嬉しかったです。

すごく嬉しかったです。

建築現場での秋島社長

その方は、会社の台所事情もよく知っていたので、お金も「いついつ振込みますから」と気を遣って言って下さいました。正直、助かりました。

私にとっての最初の家づくりで、お客様にご満足いただけた事は、とても大きな自信になりました。
この時に感じた想いが「お客様がニコニコと笑顔で喜んで下さる仕事をしよう」という私の原点でもあります。

このお客様を初め、本当に色々な所で多くの方のお世話になり今日に至ります。
ありがたいご縁で今があります。日々、心の底から感謝しています。

代表取締役

秋島雅彦