第一話 会社創業
当社は、昭和43年に創業しました。今は亡き父である秋島猛(あきしまたけし)が、個人創業して始まりました。
当時、清水町で一番大きな建設会社であった上神田建設の大工として働いていました。建築ブームで仕事に困らないような時代だったので、職人達は一人二人と独立していき「おまえも早く一人立ちしないと・・・」と後押しされての独立でした。
父、猛が独立をして創業したのは、2番目の姉が小学校に入学したころです。職人として働く父の姿に変わりはなかったので、個人創業したことをこの頃はわかりませんでしたね。
幼少期は、職人が住み込みで働いていました。冬場になると建築業は、完全休業。職人さん達が家に集まり朝までマージャンをすることがしょっちゅう。常に職人さん達が身近にいて遊んでくれました。だから職人さん達に出す夜食作りの手伝いなども楽しんでやっていました。
建築ラッシュの時代と言えども、会社経営となれば自分で仕事を取らなければならない。ですが父は根っからの職人で、酒は一滴も飲まず、口数が少なく人付き合いが苦手でした。なんとかつなぎつなぎで仕事をしていたようですが、母は絶えず内職で助けていました。そんな生活でしたから両親の中は険悪であり、父が母に手をあげる姿も度々目にしてました。
小学生の作文に「ぼくは将来、秋島建設に沢山の人を使って、会社を大きくするんだ」と書いています。会社経営が上手くいかないこと、家族の暮らしが大変なことが幼い心に焼きつき「自分がなんとかしてやろう」と心に誓うようになりました。
第二話 ガン宣告
父は、個人創業してから二級建築士の資格を取り、建設業を行うための許可も取りました。
真面目にコツコツと働く職人であり、その腕も高い評価をもらっていました。
自分から外に出て人と付き合える人でなかったので、仕事を取るのに苦労したようです。ですが公共建築が頻繁に発注されていた時代であったことが幸いし、なんとか生計がたてられたようでした。
中学2年生の時でした。「お父さん、胃潰瘍だって」と私は、聞かされました。でも本当の診断は、ガンでした。父は、母の付き添いで札幌の病院へ行き、胃を全て摘出する手術をしました。その為、一番上の姉が高校を卒業して進学する予定だったのですが、断念。姉は、母に代わり現場の職人さん達の弁当作り等を一人でこなしていました。私は、付き添っている母の着替えを持って一人で汽車に乗り、病院へ行ったことを覚えています。
「お金がなかったからねぇ、札幌駅についても遠い病院まで歩いて着替えを持ってきてもらったんだよ」と母は今でも語ります。私はというと「看護婦さんが、きれいだなぁ~」なんて思っていたことが記憶に残っています。「子どもでしたからねぇ。何呑気に考えてんのよ」と今なら思いますけど・・・。(笑)
幸いにも胃を全て摘出したことで、転移はなく退院することができました。それからは、やはり父の元気はなくなっていきましたね。
そして、中学のこの頃から休みの日には、現場へ行き父の仕事を手伝うようになりました。「手伝ってくれ」などと言われたことはないですね。親の働く姿を見て、そうする事が当たり前だと思っていました。
第三話 進路
高校卒業後の進路で、周りが動いている中、一人だけ呑気に遊んでいました。自分は、親父の後を継ぐと決めてましたから。
ですが、周りは大反対でした。ですが私は、子どもの頃に「秋島建設に沢山の人を使って、会社を大きくする」と思って以来、それしか考えていませんでした。結局「どうせやるのなら、建築の学校ぐらい出なさい」と母に言われて、進学することとなりました。
卒業後は、家にもどり大工職人として働き始めました。ですが、父にはもう仕事をとる力はなかったですね。周りが見かねて、よそに修行に行くように勧めてくれました。
上神田建設時代に父が一緒に働いていた人のもとで、2年間という約束でお世話になったんです。2年間職人として働いて戻ってからも仕事は、ほとんどなかった。幸いだったのは、家には貯金はなかったが、借金もなかったことでした。
若くて経験が浅く、ましてや営業経験などもなかった。そんな自分に声を掛けてくれた方、仕事の話しをくれる方がいることが、本当にありがたいことでした。十勝管内なら何処へでも行ったし、どんな小さな仕事でもありがたくて一生懸命にやってました。今でもその頃に助けてくれた人達のことを忘れることはありません。と同時に人との出会いの大切さも学びました。
親父の後を継ぎ仕事を始めたといっても、商売の土台となる形はなく全てが自分の力で一からでした。そんな自分が成長できたのは、素晴らしい人達に恵まれたからだと思います。「どん底時代に助けてくれた人達がいたからこそ、今の自分があるんですよ・・・」
第四話 現場での出来事
私が、父と一緒に大工職人として仕事を始めてすぐの頃です。私が仕上がった現場に行った時にお客さんから、「お父さんに、ここに壁を造ってねって言ったのに俺にまかせとけの一言で、結局やってもらえなかったのよ」と聞いたんです。私は、お客さんに申し訳ない思いでいっぱいになりました。
この時、お客さんの思いと職人としての父の意見の間に入ってお客さんの思いを伝えてあげることができれば、もっと良い家ができてお客さんにも喜んでいただけるのではないか?と思いました。
そんな父から離れて行った修行先の現場でも住宅会社への不満を漏らすお客さんの声を耳にしました。現場で働いていた大工の私に「ここの会社の人は、最初はいい人だと思ったんだけど、工事が始まったら全然こっちの言うことを聞いてくれなくなったんだよね」と怒りがおさまらない様子でした。
その時のお客さんの怒りながらも残念で淋しそうな顔と私自身のやるせない思いが、いつまでも消えませんでした。でも、修業の立場では、何もできないのが現実でした。
この出来事があった翌日、私は親方に頼んで、墨付け・階段・床の間と大工が覚えるのに十年かかると言われる仕事を自分に教えてくれとお願いしました。その時の親方が力になってくれたことで、二年間という短い修業期間で家に戻って大工としてやれるだけの自信をつけることができました。
第五話 私の仕事への思い
今もなお、お客様に出会う度にこの仕事の奥の深さや感動の大きさに疲れも吹き飛ぶ毎日です。日々、もっともっと向上しなければと感じています。
私は、この仕事の面白さを沢山のお客様に教えていただきました。まだ私が駆け出しだった頃に感じたのは「もっとお客様との距離が縮まれば、もっといい家づくりが出来るのに」という思いでした。
そして考えてみたことは、私たち建築業界の人間にとっては当たり前のことでも、最初で最後の気持ちで家づくりに挑戦されるお客様との間に知識などの準備の差がとても大きいのではないか?ということでした。
そこで、お客様から私達へ要望や相談をしやすいようにするにはどうすればよいか?初めての家づくりに挑戦するお客様はどんなことに疑問や不安を持っているのか?などをあらかじめこちらから伝え、正しい情報を提供するなど様々な取り組みをさせていただく中で、当社は何とか今日を迎えられたのだと思っています。
私は、現場職人時代からの技術と経験で安心で安全な家づくりのご提案を心掛けています。設計は、主婦である女性の生活者の視点で、家事をされる奥様の動線を大切に考え、欠かせない収納スペースは無駄がなく使い易さを考えた細やかな配慮が行き届くようなプランニングをしています。そして地域密着で顔の見える100%自社職人の手で施工をします。
互いに信頼しあい家づくりのプロセスを楽しみ、完成後ともに笑顔を共有できることが私にとってこの仕事をしていて一番の喜びです。